2013年6月19日水曜日

作品紹介(2)

展覧会の準備として今、江上茂雄さんの水彩画をとにかく全部見て、とにかく全部写真に撮ろうと作業を進めています。

67歳からの30年間、ほぼ毎日水彩画を1枚描いてきたわけですから、総計は1万枚。なかなか終わりは見えません。

1枚1枚ライティングを調整して、、、といった丁寧な撮影ではなく、どちらかといえば次々とメモ撮りしていくかんじ。ただ作業を繰返していると面白いもので、大体100枚を越える頃すこしトリップした気分になります。

そしてそんなとき、決まって目が震える瞬間があります。

紙の上の色と形が突如動き出し、空間がわずかに歪み、目を衝いてきます。「なんだこの絵は!」と驚きの声を挙げるとともに、「ぼくはこれまで江上さんの絵の何を見ていたのか?」とのかるい落胆さえ訪れます。

平成17年、江上さん93歳のときに描かれたこの2枚の水彩画も、私にとってはそんな絵です。

「切り通し 六月」 平成17年6月 水彩 荒尾市郊外

「切り通し 初夏」 平成17年7月 水彩 荒尾市郊外

緑と黄土色とを基調に色が奔放に塗り重ねられた、荒々しい筆致に一瞬戸惑うかもしれません。写実・写生を旨とする江上さんですが、「ヤッとフォービズムまでたどりついたように思う」とご自身でおっしゃるように、そのスタイルは常に揺れ、一定ではありません。

ただ興味深いことに江上さんの絵においては、どんなに形を崩して描かれているように見えても、すこし離れて見ればそれが何を描いているのかほとんど迷いなく分かるのです。分からないとすればむしろ、どうしてそれと分かったのかというその理由。感覚が理性より先んじて対象をつかんでしまうとでも言うのでしょうか、時間の流れを飛び越えてしまうようなことも起こりえます。

だからこの2枚も絵も、その奔放さに対する戸惑いとは裏腹に、ここが緑生い茂る山道であることはすぐに分かるでしょう。

それでもなお私の目を衝くのは、「(植物の)緑」や「道」といったんは名付けたとしてもそこに回収されることのない名付け得ぬ余剰であり、風景を前にした画家の精神の動きのようなものであり、風景と画家との交歓の軌跡のようなものなのです。

同じ場所を同じ構図でとらえた2枚の絵ではありますが、緑、道、影、光、そして画家、さらにはおそらく風とが混然一体となって溶けあい、まったく違う絵になっています。「どこからどこまでが緑で」「どこからどこまでが影で」「どこからどこまでが画家の主観で」などと線引きすることの無意味な世界がここに立ち上がります。

そして画面の上部、左右のほぼ真ん中に目に映る白。

上の絵「切り通し 六月」において緑の上から塗られた白い絵具は、その物質的な厚みをともなって目に飛び込み、緑と拮抗しながら風景全体を撹乱さえする強さを持っています。

一方で下の絵「切り通し 初夏」においてこの白は、緑の絵具から逃れ得た紙の白。周囲を取り囲み、浸食せんとばかりに迫りくる青い影から逃れるように、この白は奥へ奥へと後退していくのです。

この白に私が既に知る名前を与えるとするなら「光」となるでしょうが、しかし私の知る光とこれはまったく違うような気がしてなりません。