絵を描いている途中にタイトルが思い浮かんだり、描き終ってからタイトルをひねり出すとか、そういうことはしない。けれど、過去何度か開いた展覧会(初個展は退職した60歳の年に!)では「やはり作品にタイトルがあった方がさまになるだろう」と考えられたし、3年前に自費出版された作品集に掲載されている作品にも一応タイトルはあります。
ご本人にとってはあくまでも便宜的なものでしかないのでしょう。だからそのどれもこれもが簡潔なものです。そしてだからこそ、ときにそのタイトルが江上さんの絵が持つ詩情をよりゆたかに醸すこともあります。
たとえば「夏の終わり」という作品もそんな1枚ではないでしょうか。
「夏の終わり」 平成14年9月 水彩 荒尾市郊外
描かれたのは9月。夏の盛りを過ぎ青々とした緑もすこし色あせ、画面全体に黄色がかった昏い色合いが季節の衰えを兆しているかのようです。そんな色合いもあってかこの絵は、伸びやかな開放感とともに「終わり」ゆえのわずかに不安な心持ちを私にもたらします。
絵をもう少しじっくり見てみましょう。
空は画面の上半分を占め、大きく広がっています。上下を二等分する構図は通常なら安心感をもたらすところですが、しかし下半分を占める地面は、空と同じように大きく広がっていくかのように見せかけて、じつは左上から圧迫されて右下に逃げていくしかないように描かれています。
左を錘する大きく暗い緑、茶色の地面が奥へと抜けていくのを阻む黒い線、緑の地面の上から杭を打つように突きささる直立した木々。そして緑色と黄土色の地面は白い線で囲われ、お互いに混ざり合うことも左の茶色と溶けなうこともなく、画面の右側へと追い立てられていくのです。
場所は江上さんがよく絵を描きに行ったという荒尾運動公園。画面の下半分を占める茶色の地面は道路ではなくおそらく運動場で、とすれば画面の向こう側へと続いていかないのも見える通りに描いただけとは言えますが、しかしそれにしても左側に立つ木の描き方はどうでしょう。筆は左から右へと運動し、その勢いは空にも伝播していくようです。
さらに根元の青い影。木の葉っぱが画面右への運動を勢いよく感じさせるとすれば、この影というには青すぎるようにも思える大きな染みは地面にじわじわと染み渡り、まるで地面を侵食していくかのような不気味ささえ感じさせます。
地面だけではなく画面全体を左から右へと押し出していくような動き(地平線もわずかに右上がりのように見えます)はしかし、わずかな不安感や不気味さをもたらしながらも日本という豊かな気候風土に暮す私たちにとっては、秋を越えあらゆるいのちが枯れ切ゆく冬への移り変わり、さらにはまた芽吹く春がやってくる望みにまでつながっていくのかもしれません。
「終わり」は「はじまり」と円環をなしてつながり、巡っていくのです。
さて、長々と書いてしまいましたが、そもそも今回この作品を取りあげたきっかけはもうひとつあります。
それがコレ。
福岡市在住のシンガー高取淑子さんのアルバム「夏の終わり」。
見ての通りアルバムジャケットが江上さんの「夏の終わり」なのです。3年前に開催された江上さんの個展をご覧になった高取さんが、ご自分の曲(とアルバム)と同名のこの作品をぜひジャケットに使いたいと依頼されたとか。
もちろん今、私のなかではヘビーローテーション!(たけ)
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