2014年1月4日土曜日

「ハンズさん」ってなに?(その2)

(その1)で「ハンズさんが一過性の仕掛けではなく、現在も続く仕組みになった」と書きました。書きましたがずっと違和感が残っています。「仕組み?本当?」と。勢いで底上げしてしまったような気がしています。

きっとハンズさんは、仕掛けにも仕組みにもなっていません。展覧会を運営する立場(あるいは美術館に働く立場)の私からこう言ってしまったら元も子もないのかもしれませんが、結局「ひと」次第です。幸いにもハンズさんは人に恵まれてきたとしか言いようがないのです。

一番長くハンズさんとして働き、私がリーダーとして信頼しているNさん。そのNさんは早くから「来場者をおもてなしする」ことの大切さを明言し、心がけておられました。(2008年に開催した「アートにであう夏 vol.10 ぼくの久留米絣ものがたり」という展覧会では報告書をつくることができましたが、そこに寄稿くださったNさんはすでに「おもてなし」を書かれています)

来場者の気質や気分に合わせて、その人が求めていることを察知して届ける。それを展覧会場でやろうと。ですから、たとえば作品のことを知りたがっている人がいれば作品の解説を、ただ話をしながら展覧会を楽しみたい人には話し相手(聞き役)として、ひとりで静かに見たいという方にはもはや話しかけずそっと見守る、というかんじ。

しかし、ハンズさんのおもてなしは実はその先が真骨頂。使命感の根底には「来場者が気持ちよく時間を過ごしてくださるように」と同時に「展覧会を十二分に楽しんでもらえるように」という気持ちがあります。展覧会や出品作への愛情は、企画者たる学芸員のそれとひけを取らないどころか勝る場合すらあります。「ハンズ(さん)がいない状態で来場されて展覧会を見て帰られる時よりも、もっとずっと作品や展覧会の魅力を堪能して帰ってもらいたい」とハンズさんたちは願い、働いてくれます。ですから自主勉強や自主ミーティングは欠かさず、つねに向上心をもって展覧会運営に携わってくれます。

とはいえここが肝要なんですが、ハンズさんは自分たちの想いや愛情を鑑賞者に押し付けることは決してしないように心がけます。それだと来場者への「おもてなし」になりませんし、と同時に展覧会をつくりあげることになった企画者の意図や想いをまずは理解するように努め、その意図や想いを実現するために自分たちはどう動くべきか、ということを考えます。あくまでも「つなぎ手」としての役割に徹するプロなのです。ですので、しばしば誤解を受けますが、ハンズさんはボランティアスタッフではありません(ボランティアそのものを否定するつもりはありませんのでそれも誤解なきよう)。

さて、ではどうやれば「ハンズ(さん)がいない状態で来場されて展覧会を見て帰られる時よりも、もっとずっと作品や展覧会の魅力を堪能して帰って」もらえるのか。そのためのもっともシンプルな方法が、なるべく長く会場に滞在してもらうことです。

一人の方が会場に来られるとします。もしその方が、そのままだと5分くらいで会場を後にしそうな、そんなかんじだとします。もちろん鑑賞は長い時間をかければそれだけ深いものになるという訳ではありません。短時間だからこそ(あるいは短時間でも)ぐっと凝縮された鑑賞が可能になるケースも多々あります。とくにこれまでたくさんのモノや展覧会を見てきた人は、すーっと会場を一回りしただけで私なんかが数時間かけても見れないものを見ている、そんなケースもあります。しかし、会場に入ったはいいけどなんとなく興味なさそうとか、どう見ていいかなんとなく困っていそうとか、そういう人をハンズさんは見逃しません。どこかのタイミングでふっと声をかけて、来場者の気持ちをほぐし、会場に長居したくなるように、作品をじっくり見たくなるように誘います(最近の展覧会ではハンズさんが声をかけるタイミングや内容がつかみやすいポイントを、あらかじめ展示の中につくっておくようにしたりしています)。そうすると最初は気難しそうな顔をして入ってこられた方が、気づけば楽しそうに作品を見て長くハンズさんとお話しして、最後には「ありがとうございました」と帰られる、そんなことも多々あります。

たとえば展覧会場にやって来た子どもたちに、美術館スタッフはしばしば「作品をじっくり見てね」と言います。しかし私にはそう言うことに対するためらいがあります。じっくり見てもらうことが目的なのではなく、自分の目と心で作品と向き合ってもらうことが大切なのであり、我慢強く作品の前に立つことや(見るという)ひとつのことに集中するという、世間一般的に「お利口」と誉められるそんなことを強要したい訳じゃないからです。しかし長く見ているとそれだけで多くのものが見えてくるということが美術にはたしかにあります。だからこそ「じっくり見てね」と言わずともついつい長く見てしまうようなきっかけとなる一言をいかに届けられるかが重要ですし、ポンとやさしく背中を押してやれば、子どもと美術の関係は大人が想像する以上に仲良しで、あとは子どもたちが勝手に遊ぶに委ねていればいいのです。

閑話休題。ですから(と、うまくつながってますかね?)ハンズさんが目指すところの「おもてなし」、ミュージアムにおけるところの「おもてなし」というのは、いわゆるサービス精神というよりも教育(「啓蒙」では決してなく)への志向だと考えていますし、美術の力を信じながら一人ひとりの来場者に寄り添うための術だと捉えています(抽象的すぎますかね?)。ハンズさんのその術にマニュアルはありませんし、マニュアル化できないからこそ「おもてなし」たりえるのでしょうし、ハンズさんが3人いれば三様の「おもてなし」が生まれ、だからこそ多様性と公共性を旨とする展覧会という場が生きるのであり、美術という時空を超える価値が生かされるのでしょう(飛ばしすぎですかね?)

もう一人、大切なことを教えてくださったハンズさんがおられます。Fさんです。その時はハンズさんとしてではなく一鑑賞者として展覧会に来場下さったFさんがたしかこんなことをおっしゃいました。「お仕着せの展覧会とちがって、この展覧会はなんて上級者向けなんでしょう。楽しみ方はご自由に。といっても来場者を放っておくのではなく、その方の主体性に任せてすっと寄り添っていくかんじがステキです」と(たしか2009年の「郷土の美術をみるしるまなぶ vol.1 博多工芸ぶらぶら散歩」だったかと)。

「上級者向け」「主体性」という言葉遣いはちょっと誤解されるかもしれません。すこし言い換えるとこういうことでしょうか。「展覧会を自由に見て、等身大の自分のままで作品と向き合うことのたのしみ方を、あらゆる来場者が知らず知らずのうちに知り、学び、実践してしまっている、そんな場になっている」と。「初心者」であれ「上級者」であれハンズさんは線引きはしませんし、排除することもありません。「主体的」に見ると言って、では「受動的」に見るのがだめなのではなく、そもそも主体的と受動的、あるいは主体と客体との線引きはどのへんで可能なのかと言えばそれはとても曖昧で、私自身は自己と他者を峻別し、自己の輪郭を肉体の皮膚に沿って確定することができるという「幻想」がいろんなややこしいこと、つまらないことを量産していると思っているんですが、それこそややこしい話になりますから一旦中断。つまりどう見てもいいんですが、その見るということの楽しさや深みを体感してもらいたい、とハンズさんは願っているのです。

ひとまず相手(鑑賞者)を丸ごと受け入れる。そのあとで「(見ることの深みへ)一緒に潜ってみましょうよ!」と誘ってみる。場合によっては「いや、ひとりで潜るよ」って方もいらっしゃいます。その時はその方に応じたツール(潜水服だったり足ヒレであったり時には潜水艦だったり!)をお見せして「じゃあ、よかったらコレ使ってくださいね」とその場は立ち去り、でもその方を見守り続ける。それがハンズさんの「おもてなし」なのです。

もうちょっと具体的に。

往々にして会場に順路はありません。解説やキャプションも多くなく、というよりあえて「穴」や「抜け」があったりします。それは「自由に見てね」という企画者からのメッセージであると同時に、ハンズさんが展覧会の一部としてうまく機能するための「仕掛け」でもあります。そして会場に足を踏み入れた来場者がちょっと戸惑って「あれ、これどういうこと?」「うーん、ここもうちょっと知りたいな」という顔をしたらすかさずハンズさんは、絶妙のタイミングとあり得ないような気さくさで話しかけてきます。

このファーストコンタクトがうまく行けば、来場者は「あ、こんなかんじでいいのね」とリラックスして、リラックスすると今まで見えなかったものが少しづつ見えてくるようになることもあります。ですのでハンズさんは、来場者とのこのやりとりを入念にシミュレーションし、「こう来たらこう返す」というパターンをあらかじめいくつも想定しておきます。しかし実際のところはそうそううまく事は運びません。事が運ばないことを分かりながらも事を運ぶように準備しておくことで、想定したパターンから逸脱した時に対応するコミュニケーション力が蓄積され、ハンズさん流の「おもてなし」が生まれるのです。(入念に想定し、緻密に準備しながら、そこからの逸脱にこそ本当の豊かさを実感し、その逸脱をもたらす出会いに悦びを見いだすのは、展覧会という場をつくるうえでも重要なことでしょう)

会場はコミュニケーションを誘発するような雰囲気が漂っています。そうすると、知りたいこと、分からないことが出てきたら来場者自身がハンズさんに声をかけてくることも多くなります。というよりも、与えられた情報と環境のなかで「お仕着せ」の楽しみ方に流されるのではなく、「もっと楽しみたい!」という欲が自然と生まれていきます。というよりも、「自由に見る」ことの楽しみは待っているだけでは訪れませんし、自分で獲得しなければならないのです。そのための一番シンプルな行為はまず「聞いてみる」ということでしょうか(会場入口には「ハンズさんになんでも聞いてね」という「展覧会の楽しみ方」が書かれていて、入場するときに一読をお願いしています)。聞けば知ることができるけど、聞かなきゃ知らないままで終わることがたくさんあります。「聞かなきゃ(あるいは知らなきゃ)損をするよ」といじわるを言っている訳ではなく、あくまでも「聞いてくる人は大歓迎、聞いてこない人ももちろん歓迎」という歓待の姿勢です。「世の中ってそういうもんでしょ?」というスカしたスタンスではなく、「こんな世の中だったら住み良いな」という希望を込めているのです。

気さくだけど与えすぎないハンズさんと、自由だけど(形の上での)公平さが整えられていない展覧会場は、来場者全員とそういう希望を共有したいと本気で思っています。ですから来場者同士には歓待とは言わずとも寛容の姿勢をやんわりと求めます。会場入口には「ハンズさんに何でも聞いてね」と並んで「ひとりで静かに見るのもアリだけど、誰かと話しながら見るのもステキなこと」と書かれているのですが、それは「あなたが静かに見たいと思っているとしても、誰かが話しながら笑顔で見ていれば、その笑顔をいっしょによろこんでね」であり「誰かと話しながら見るのは楽しいけれど、ひとりで静かに見ている人のその心の中に開いた笑顔も想像しようよ」でもあるのです。ハンズさんの「おもてなし」が教育(あるいは共育?)への志向である言うのはそういうことで、私たちにとって来場者は「お客さん」ではなく、お迎えの言葉は「いらっしゃいませ」ではなく「こんにちは」なのです。

なんだかずいぶんとまとまりのない、しかも回りくどい繰り言になってしまいました。思いつくまま、思い出すまま書き連ねて、自分で読み返す気もちょっと...。ともあれ今回は、ハンズさんといっしょに育ててきたこんなぐだぐだうねうねした想いが(その1)で言及した以下のシリーズ趣旨文にぎゅぎゅっと凝縮されたのだということだけお伝えして終わらせてください。

本展は九州のローカルな美術をたのしく深く紹介するシリーズ展「郷土の美術をみる・しる・まなぶ」の5回目にして特別編になります。大人と子どもがときには一緒に、ときには別々に美術と向き合う場と時間をつくり出します。会場ではおもてなしスタッフ「ハンズさん」が来場者を気さくにお出迎えいたします。作品鑑賞のお手伝いをしたり、話し相手になったり、ちょっとしたクイズを出してみたり。ただし展覧会場での過ごし方は皆さん次第。ひとり静かに見るもよし、誰かと話しながら見るもよし、どうぞご自由にお楽しみください。

いずれもうちょっとまとめて書き直さないといけませんね、さすがに。(たけ)