2014年10月5日日曜日

クレパス画3点が福岡県美に

「黄耀」1964年ごろ

茂雄さんのクレパス画3点「線路敷きの夕暮れ」「雪降る」「黄耀」を現在福岡ケンビで開催中の「とっとっと? きおく×キロク=」(~11月24日)に出品しています。

他の出品作と混ざり合いながらも独特の魅力を放つ茂雄さんのクレパス画。一般300円、65歳以上の方は200円とお得価格ですので(笑)お時間の都合がつく方はぜひいらしてください。(たけ)



「福岡県文化会館建設50年記念 とっとっと? きおく×キロク=」
福岡県立美術館
10月4日(土)~11月24日(月休)

→ http://fukuoka-kenbi.jp/exhibition/2014/kenbi2497.html

2014年8月25日月曜日

江上茂雄展、終了しました

茂雄さんが長らく暮らした荒尾市での、没後初めての展示会。荒尾総合文化センター(8/6~8/14)、万田炭鉱館(8/19~8/24)、2つの会場での会期がすべて終了しました。地元のたくさんの方に絵を観てもらって、茂雄さんも悦んでいらっしゃると思います。足を運んでくださった方、気にしてくださった方、みなさんありがとうございました。

熊本日日新聞の小野さんが記事を書いてくださっていました。茂雄さんが亡くなられてすでに小野さんが書いてくださった追悼記事が今回の展示会のきっかけでもあります。ご縁と変わらぬ愛情に感謝いたします。(たけ)

熊本日日新聞 8月22日

2014年8月15日金曜日

「江上茂雄 ふるさと荒尾展」前半終了

8月6日から荒尾総合文化センターで開催されていた「江上茂雄 ふるさと荒尾展」が先日14日に終了しました。

開館日8日間で500人ほどの方に茂雄さんの絵を観ていただくことができたようで、わたしたちもとてもうれしく思っています。

昨日はチーム茂雄(とく、かじ、たけ)も全員集合。「江上さんが街で絵を描いていらっしゃるのをよく見ていた」「あの時のあの人が江上さんなのだと改めて知った」「自宅にうかがって絵をもらったことがある」「描かれている風景のどれもこれもがよく分かる」との地元ならではのホットな反応に、ちょっぴり胸を熱くしました。

わたし(たけ)は作品解説を仰せつかったのですが、いつもながら熱が入る余りのグダグダ1時間トーク。茂雄じいちゃんもそれをみこしてか、トークが始まる直前から大雨が降り、「私は湿りけの多い人間ですから」と言っていたじいちゃんが初盆で帰ってきているんだなあ、と愉快な気持ちでした。

じつは搬入展示の日も雨、1年前の福岡ケンビでの展覧会オープンの日も雨、そして突然の旅に出られたと連絡をもらった日も雨でした。神通力?ハンパないですね。

さて、「江上茂雄 ふるさと荒尾展」はじつはまだ後半戦が残っています。おなじく荒尾の万田炭鉱館にて8月1日から24日まで。出品点数はぐっと絞り込まれますが、絵はまた違った表情を見せてくれるのかもしれません。お近くの方はぜひ足をお運びください。

万田炭鉱館
→ http://www.city.arao.lg.jp/intro/pub/detail.aspx?c_id=16&redi=ON&id=22&pg=1

でもじいちゃん、作品搬入日にはなるべく雨は降らせないでね。(たけ)

熊本日日新聞 8月4日

熊本日日新聞 8月7日

2014年8月3日日曜日

今日の茂雄さん(その8)


今週8月6日から荒尾市総合文化センターで江上茂雄さんの展示会が開催されます(~8/14)。小さな規模ですが、クレパス・クレヨン画、水彩画あわせて30点を出品します。

今回ご紹介するクレパス画は、そのうちの1点。去年の展覧会では3館のどこにも出品されなかったものです。そういう絵を荒尾の展示会ではわずかですが見てもらえます。

とくにこの絵は石炭工場を描いた、茂雄さんの画題には比較的珍しいもの。茂雄さん自身は大牟田の三井三池炭鉱で働きつづけましたが、荒尾も万田坑を抱える土地ですから、なつかしくご覧になる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

構図のつくり方、マチエールの豊かさ、荒々しくもどこか牧歌的な雰囲気。とても茂雄さんらしい絵でもあります。

茂雄さんが退職されてから40年住み続けた荒尾の地。初盆ですからふらっと帰ってこられるかもしれませんね。(たけ)


荒尾総合文化センター


荒尾総合文化センターでの展示の後、出品数を減らして万田炭鉱館(荒尾市)でも展示会が開催されます(8/19~8/24)

2014年7月7日月曜日

今日の茂雄さん(その7)

551×728cm、クレヨン、第2回個展(1976)出品

はげしい雨と雷が続きますね。みなさん、どうぞお気を付けください。(たけ)

2014年6月12日木曜日

今日の茂雄さん(その6)

507×683cm、クレヨン

「今日も疲れたなあ」なんて思いながらぼんやり眺めていると、じんわりと染みてきた一枚。

これもまた、なんともふしぎな絵です。

まるで子どもが描いたような素朴な印象。絵肌をあまりつくりこんでいないのもその理由のひとつでしょうが、なによりもこのシンプルな構図が効いています。小高い丘を描く。しかし、なかなかこうは描けないでしょう。

しかしよく見ると、いろんなことが見えてきます。絵肌をつくりこんではいませんが、表情を細やかにつくっています。こすっているところ、線の風合いを残しているところ、そして黄緑の丘と水色の空が接するところがわずかに明るく塗りこめられています。

丘は左右対称の形をしていますが、じつは画面の中で左右対称なのは(意外に思われるかもしれませんが)この丘だけです。画面を横切る線は右下りと左下りで、丘の下方に配された茶色の形とその右下に配された紫と黄色のかたちも画面にアクセントと流れをもたらしています。そして、いつも画面のどこに白を配すべきかを考えていた江上さんらしい、白いシャツを着た人物。

シンプルな構図ながら絵が膠着せず、ゆるやかなリズムが目に心地よく届いてきます。

江上さんがこの絵でやりたかったことが何だったのかはにわかには分かりませんが、しかしこの翳りのない色彩と牧歌的な穏やかさとが観る人の気持ちを慰めてくれることは間違いありません。(たけ)



2014年6月4日水曜日

今日の茂雄さん(その5)

756x554㎝ クレヨン

茂雄さんは大牟田や荒尾のさまざまな風景を描きましたが、それはなにも風光明媚な絵のモチーフを求めてのことではなく、「自分がいる場所」を絵にするためのことでした。ですので、この社宅の部屋の小さなベランダを描いた絵もまた茂雄さんにとってはれっきとした「風景画」といえるのかもしれません。

鉢植え代わりの四角い木の箱にさまざまな植物が植えられています。手前はきっと食事の足しになるようなものでしょう、奥は日々の暮らしの慰みに。茂雄さんはお花が好きな人でした。幾何学的な絵づくりのおもしろさもさることながら、この小さなベランダにしゃがみこんでいる茂雄さんの姿が目に浮かぶようで、私には愛おしい絵の一枚です。

ベゴニアの花の、ナイフでこすりつけたような赤い絵具がすこし暗い青い影の中で映え、揺れ、画家の眼をダイレクトに実感させます。(たけ)

2014年5月29日木曜日

【記事紹介】うれしい記事紹介

展覧会が閉幕して半年、茂雄さんが旅立たれて3か月経った今、有明新報さんが社説で江上茂雄展のことを紹介してくださってます。

展覧会は閉幕してもやっぱり終わらず、茂雄さんは旅立たれたけどやっぱり生きている。

茂雄さんの絵を覚えてくださっているみなさんに、ありがとう。(たけ)

5月12日 有明新報

2014年5月23日金曜日

今日の茂雄さん(その4)

クレヨン・水彩絵具・墨、753×566cm
山口薫が描いた月を思い出すような静謐で清らかで、けれどどこか寂しげな絵。と書いて、「月」というのは言いえて妙だなと自分で思いました。なぜならこの絵を最初見た時、縦位置なのか横位置なのか、どっちが上でどっちが下かもにわかには分からず、ただ中空に丸がぽっかりとうかんでいるだけの絵なのかと戸惑ったのですから。

しかしそのうち、その丸のまわりに描かれた柵の具合から、これが草むらの人工池が描かれた絵だと分かります。それにしてもこの池のなんと静かで、明るいこと。

画面のほとんどを占める翡翠色をした草。そよそよと風になびいているさままでとらえた木目のような質感は、茂雄さんが意図的につくりこんだものなのか、あるいは紙の具合なのかもよく分からず、絵のモチーフとしてはたったひとつのものしか描いていないにも関わらず分からないことだらけで、目の奥に刻み付けられるふしぎな絵です。

いやむしろ本当にこれは月を描いているのかもしれない。

池の水面からあふれるような月の光と、さやかに吹き渡る風とを描いたまったき「風景」画としてあるのかもしれない。(たけ)


2014年5月7日水曜日

今日の茂雄さん(その3)

クレパス、クレヨン、水彩絵具 565×752cm

茂雄さんの絵の基調色といえば緑と青でしょうか。風景を描くのでこの二色がベースになるのは自然なことのように思えますが、なかでも青は空の色、水の色、影の色、哀愁の色と茂雄さんらしい広がりを持っています。この絵の青も影を表しながら、爽やかさとわずかのもの悲しさを感じさせる印象的な色になっています。

この低い土手は茂雄さんが一時期好んだ場所らしく、しばしば描かれています。土手の土、その土とは質感の異なる地面の土、土手と地面の境界をなす石、そして木々、向こうに抜ける緑。それらが混ざり合うさまが茂雄さんの眼をとめ、手を動かしたのでしょうか。土手を塗るクレヨンをナイフでこすりつけたり、木の幹や葉の下地に白い水彩絵具を盛り上げて質感を強調したりと、物質感をとらえようとする茂雄さんなりの実験がさまざまに見て取れます。

さらにこの絵に関しては、それらの物質を覆い、より複雑で微妙な表情をもたらしている光と影に茂雄さんの絵心が動かされているようです。右下から大きく円を描くようにして右上へとうねっていく全体の構図と、その構図に回収されることなく(しかし調和をなすように重なりながら)眼の中でカクカクと自在に動き出すそれぞれの色彩。茂雄さん自身が強調する「写実」を越えて、どこかセザンヌにも通じるような快活さをこの絵は放っています。(たけ)

2014年4月23日水曜日

今日の茂雄さん(その2)

756×570cm クレヨン

画面いっぱいに描かれた一本の木。枝は曲がりくねり、画面の隅々にまで伸ばされ、その存在感たるやすさまじい。鮮やかな色遣いと独特の質感もさることながら、上から見下ろしているのか横からまっすぐ見ているのか定まらない視点がこの木の物体としての迫力を増幅しているように感じる。

茂雄さんの口からその名前を聞いたことはなかったが、私にはゴッホの絵を思い起こさせた。私たちが生きている現実というコンテクストから切りはなされ、ただ物体として私たちの目の前に投げ出されたこの木。茂雄さんがこの木を目にした時に感じたであろう、筆舌に尽くしがたい圧力すら伝わってくる。(たけ)

2014年4月15日火曜日

今日の茂雄さん(その1)

49日が過ぎ、茂雄さんは彼方でゆっくりされているのでしょうか。それともやっぱり今日もこっちに来て、風景を描いていらっしゃるのでしょうか。

ゆっくりとですが、茂雄さんが描きためたクレヨン・クレパス画の調査を再開しています。今後思いつくまま気の向くままにご紹介していきたいと思います。

563×752mm クレパス

空を大きく取った茂雄さんお得意の風景ですが、うねる雲と低い山に並ぶ木々、広がる田んぼが三様に動きだすような、軽快さと違和感をあわせ持ったふしぎな絵。素朴に見えてかなり実験的なことをやっています。(たけ)

2014年3月25日火曜日

追悼記事

茂雄さんが旅立たれて1カ月が経ちます。

けれど茂雄さんの絵を思い出してくれる人、展覧会図録を横にして絵を描いてくれる人、こうやって記事を書いてくださる人たちがいて、茂雄さんはぼくたちの心の中に生き続けてくれています。

なんて言えば、茂雄さん、向こうで恥ずかしがってらっしゃるかもしれませんね。


熊本日日新聞に3月21日掲載された記事です。(たけ)


2014年1月4日土曜日

「ハンズさん」ってなに?(その2)

(その1)で「ハンズさんが一過性の仕掛けではなく、現在も続く仕組みになった」と書きました。書きましたがずっと違和感が残っています。「仕組み?本当?」と。勢いで底上げしてしまったような気がしています。

きっとハンズさんは、仕掛けにも仕組みにもなっていません。展覧会を運営する立場(あるいは美術館に働く立場)の私からこう言ってしまったら元も子もないのかもしれませんが、結局「ひと」次第です。幸いにもハンズさんは人に恵まれてきたとしか言いようがないのです。

一番長くハンズさんとして働き、私がリーダーとして信頼しているNさん。そのNさんは早くから「来場者をおもてなしする」ことの大切さを明言し、心がけておられました。(2008年に開催した「アートにであう夏 vol.10 ぼくの久留米絣ものがたり」という展覧会では報告書をつくることができましたが、そこに寄稿くださったNさんはすでに「おもてなし」を書かれています)

来場者の気質や気分に合わせて、その人が求めていることを察知して届ける。それを展覧会場でやろうと。ですから、たとえば作品のことを知りたがっている人がいれば作品の解説を、ただ話をしながら展覧会を楽しみたい人には話し相手(聞き役)として、ひとりで静かに見たいという方にはもはや話しかけずそっと見守る、というかんじ。

しかし、ハンズさんのおもてなしは実はその先が真骨頂。使命感の根底には「来場者が気持ちよく時間を過ごしてくださるように」と同時に「展覧会を十二分に楽しんでもらえるように」という気持ちがあります。展覧会や出品作への愛情は、企画者たる学芸員のそれとひけを取らないどころか勝る場合すらあります。「ハンズ(さん)がいない状態で来場されて展覧会を見て帰られる時よりも、もっとずっと作品や展覧会の魅力を堪能して帰ってもらいたい」とハンズさんたちは願い、働いてくれます。ですから自主勉強や自主ミーティングは欠かさず、つねに向上心をもって展覧会運営に携わってくれます。

とはいえここが肝要なんですが、ハンズさんは自分たちの想いや愛情を鑑賞者に押し付けることは決してしないように心がけます。それだと来場者への「おもてなし」になりませんし、と同時に展覧会をつくりあげることになった企画者の意図や想いをまずは理解するように努め、その意図や想いを実現するために自分たちはどう動くべきか、ということを考えます。あくまでも「つなぎ手」としての役割に徹するプロなのです。ですので、しばしば誤解を受けますが、ハンズさんはボランティアスタッフではありません(ボランティアそのものを否定するつもりはありませんのでそれも誤解なきよう)。

さて、ではどうやれば「ハンズ(さん)がいない状態で来場されて展覧会を見て帰られる時よりも、もっとずっと作品や展覧会の魅力を堪能して帰って」もらえるのか。そのためのもっともシンプルな方法が、なるべく長く会場に滞在してもらうことです。

一人の方が会場に来られるとします。もしその方が、そのままだと5分くらいで会場を後にしそうな、そんなかんじだとします。もちろん鑑賞は長い時間をかければそれだけ深いものになるという訳ではありません。短時間だからこそ(あるいは短時間でも)ぐっと凝縮された鑑賞が可能になるケースも多々あります。とくにこれまでたくさんのモノや展覧会を見てきた人は、すーっと会場を一回りしただけで私なんかが数時間かけても見れないものを見ている、そんなケースもあります。しかし、会場に入ったはいいけどなんとなく興味なさそうとか、どう見ていいかなんとなく困っていそうとか、そういう人をハンズさんは見逃しません。どこかのタイミングでふっと声をかけて、来場者の気持ちをほぐし、会場に長居したくなるように、作品をじっくり見たくなるように誘います(最近の展覧会ではハンズさんが声をかけるタイミングや内容がつかみやすいポイントを、あらかじめ展示の中につくっておくようにしたりしています)。そうすると最初は気難しそうな顔をして入ってこられた方が、気づけば楽しそうに作品を見て長くハンズさんとお話しして、最後には「ありがとうございました」と帰られる、そんなことも多々あります。

たとえば展覧会場にやって来た子どもたちに、美術館スタッフはしばしば「作品をじっくり見てね」と言います。しかし私にはそう言うことに対するためらいがあります。じっくり見てもらうことが目的なのではなく、自分の目と心で作品と向き合ってもらうことが大切なのであり、我慢強く作品の前に立つことや(見るという)ひとつのことに集中するという、世間一般的に「お利口」と誉められるそんなことを強要したい訳じゃないからです。しかし長く見ているとそれだけで多くのものが見えてくるということが美術にはたしかにあります。だからこそ「じっくり見てね」と言わずともついつい長く見てしまうようなきっかけとなる一言をいかに届けられるかが重要ですし、ポンとやさしく背中を押してやれば、子どもと美術の関係は大人が想像する以上に仲良しで、あとは子どもたちが勝手に遊ぶに委ねていればいいのです。

閑話休題。ですから(と、うまくつながってますかね?)ハンズさんが目指すところの「おもてなし」、ミュージアムにおけるところの「おもてなし」というのは、いわゆるサービス精神というよりも教育(「啓蒙」では決してなく)への志向だと考えていますし、美術の力を信じながら一人ひとりの来場者に寄り添うための術だと捉えています(抽象的すぎますかね?)。ハンズさんのその術にマニュアルはありませんし、マニュアル化できないからこそ「おもてなし」たりえるのでしょうし、ハンズさんが3人いれば三様の「おもてなし」が生まれ、だからこそ多様性と公共性を旨とする展覧会という場が生きるのであり、美術という時空を超える価値が生かされるのでしょう(飛ばしすぎですかね?)

もう一人、大切なことを教えてくださったハンズさんがおられます。Fさんです。その時はハンズさんとしてではなく一鑑賞者として展覧会に来場下さったFさんがたしかこんなことをおっしゃいました。「お仕着せの展覧会とちがって、この展覧会はなんて上級者向けなんでしょう。楽しみ方はご自由に。といっても来場者を放っておくのではなく、その方の主体性に任せてすっと寄り添っていくかんじがステキです」と(たしか2009年の「郷土の美術をみるしるまなぶ vol.1 博多工芸ぶらぶら散歩」だったかと)。

「上級者向け」「主体性」という言葉遣いはちょっと誤解されるかもしれません。すこし言い換えるとこういうことでしょうか。「展覧会を自由に見て、等身大の自分のままで作品と向き合うことのたのしみ方を、あらゆる来場者が知らず知らずのうちに知り、学び、実践してしまっている、そんな場になっている」と。「初心者」であれ「上級者」であれハンズさんは線引きはしませんし、排除することもありません。「主体的」に見ると言って、では「受動的」に見るのがだめなのではなく、そもそも主体的と受動的、あるいは主体と客体との線引きはどのへんで可能なのかと言えばそれはとても曖昧で、私自身は自己と他者を峻別し、自己の輪郭を肉体の皮膚に沿って確定することができるという「幻想」がいろんなややこしいこと、つまらないことを量産していると思っているんですが、それこそややこしい話になりますから一旦中断。つまりどう見てもいいんですが、その見るということの楽しさや深みを体感してもらいたい、とハンズさんは願っているのです。

ひとまず相手(鑑賞者)を丸ごと受け入れる。そのあとで「(見ることの深みへ)一緒に潜ってみましょうよ!」と誘ってみる。場合によっては「いや、ひとりで潜るよ」って方もいらっしゃいます。その時はその方に応じたツール(潜水服だったり足ヒレであったり時には潜水艦だったり!)をお見せして「じゃあ、よかったらコレ使ってくださいね」とその場は立ち去り、でもその方を見守り続ける。それがハンズさんの「おもてなし」なのです。

もうちょっと具体的に。

往々にして会場に順路はありません。解説やキャプションも多くなく、というよりあえて「穴」や「抜け」があったりします。それは「自由に見てね」という企画者からのメッセージであると同時に、ハンズさんが展覧会の一部としてうまく機能するための「仕掛け」でもあります。そして会場に足を踏み入れた来場者がちょっと戸惑って「あれ、これどういうこと?」「うーん、ここもうちょっと知りたいな」という顔をしたらすかさずハンズさんは、絶妙のタイミングとあり得ないような気さくさで話しかけてきます。

このファーストコンタクトがうまく行けば、来場者は「あ、こんなかんじでいいのね」とリラックスして、リラックスすると今まで見えなかったものが少しづつ見えてくるようになることもあります。ですのでハンズさんは、来場者とのこのやりとりを入念にシミュレーションし、「こう来たらこう返す」というパターンをあらかじめいくつも想定しておきます。しかし実際のところはそうそううまく事は運びません。事が運ばないことを分かりながらも事を運ぶように準備しておくことで、想定したパターンから逸脱した時に対応するコミュニケーション力が蓄積され、ハンズさん流の「おもてなし」が生まれるのです。(入念に想定し、緻密に準備しながら、そこからの逸脱にこそ本当の豊かさを実感し、その逸脱をもたらす出会いに悦びを見いだすのは、展覧会という場をつくるうえでも重要なことでしょう)

会場はコミュニケーションを誘発するような雰囲気が漂っています。そうすると、知りたいこと、分からないことが出てきたら来場者自身がハンズさんに声をかけてくることも多くなります。というよりも、与えられた情報と環境のなかで「お仕着せ」の楽しみ方に流されるのではなく、「もっと楽しみたい!」という欲が自然と生まれていきます。というよりも、「自由に見る」ことの楽しみは待っているだけでは訪れませんし、自分で獲得しなければならないのです。そのための一番シンプルな行為はまず「聞いてみる」ということでしょうか(会場入口には「ハンズさんになんでも聞いてね」という「展覧会の楽しみ方」が書かれていて、入場するときに一読をお願いしています)。聞けば知ることができるけど、聞かなきゃ知らないままで終わることがたくさんあります。「聞かなきゃ(あるいは知らなきゃ)損をするよ」といじわるを言っている訳ではなく、あくまでも「聞いてくる人は大歓迎、聞いてこない人ももちろん歓迎」という歓待の姿勢です。「世の中ってそういうもんでしょ?」というスカしたスタンスではなく、「こんな世の中だったら住み良いな」という希望を込めているのです。

気さくだけど与えすぎないハンズさんと、自由だけど(形の上での)公平さが整えられていない展覧会場は、来場者全員とそういう希望を共有したいと本気で思っています。ですから来場者同士には歓待とは言わずとも寛容の姿勢をやんわりと求めます。会場入口には「ハンズさんに何でも聞いてね」と並んで「ひとりで静かに見るのもアリだけど、誰かと話しながら見るのもステキなこと」と書かれているのですが、それは「あなたが静かに見たいと思っているとしても、誰かが話しながら笑顔で見ていれば、その笑顔をいっしょによろこんでね」であり「誰かと話しながら見るのは楽しいけれど、ひとりで静かに見ている人のその心の中に開いた笑顔も想像しようよ」でもあるのです。ハンズさんの「おもてなし」が教育(あるいは共育?)への志向である言うのはそういうことで、私たちにとって来場者は「お客さん」ではなく、お迎えの言葉は「いらっしゃいませ」ではなく「こんにちは」なのです。

なんだかずいぶんとまとまりのない、しかも回りくどい繰り言になってしまいました。思いつくまま、思い出すまま書き連ねて、自分で読み返す気もちょっと...。ともあれ今回は、ハンズさんといっしょに育ててきたこんなぐだぐだうねうねした想いが(その1)で言及した以下のシリーズ趣旨文にぎゅぎゅっと凝縮されたのだということだけお伝えして終わらせてください。

本展は九州のローカルな美術をたのしく深く紹介するシリーズ展「郷土の美術をみる・しる・まなぶ」の5回目にして特別編になります。大人と子どもがときには一緒に、ときには別々に美術と向き合う場と時間をつくり出します。会場ではおもてなしスタッフ「ハンズさん」が来場者を気さくにお出迎えいたします。作品鑑賞のお手伝いをしたり、話し相手になったり、ちょっとしたクイズを出してみたり。ただし展覧会場での過ごし方は皆さん次第。ひとり静かに見るもよし、誰かと話しながら見るもよし、どうぞご自由にお楽しみください。

いずれもうちょっとまとめて書き直さないといけませんね、さすがに。(たけ)