とある幼稚園が園舎を新築するにあたり、園児たちにいままで使っていた園舎の思い出を大切に持っていてもらいたいとワークショップを行ったそうです。園児一人ひとりにカメラを渡し、自分たちの好きな場所、お気に入りの場所を撮ってこさせて、最後にみんなで見せあいっこしたとか。
ひとりの園児が撮ってきたのが、水が抜かれたプールの片隅にあるプレートのようなもの。それを見て、先生はじめ大人は誰もそれがどこなのか分からなかったのに、子どもたちは全員が「プールだ!」と分かったのだそう。
おもしろいなあ、と思いました。
子どもたちの目線が低いのも一因かもしれませんが、それよりも子どもたちは大人とは決定的に異なる方法で世界を捉えているのでしょう。
大人はいわば世界を俯瞰して、全体を見渡そうとします。それに比して子どもたちは、自分たちの具体的な経験に基づき細部から舐めるようにして世界をとらえようとするのです。つまり視覚ではなく触覚。赤ん坊が物を何でも口に入れようとするのは、舌の筋肉が手とつながっていて、要は触覚によって外界を触知しようとする欲求の現れだとか。
そこではたと気が付きました。私はそんな(子どものような)大人を知っていると。それが江上茂雄さんです。
江上さんは自らの経験でもってのみ世界と向き合い、世界を触れるように描くのです。
例えばこんな絵があります。
「倉庫の前」1995年3月 水彩 大牟田市内
「どうしてこんなところを絵に描いてしまうのか分からないんですけど、気付いたら描いてるんです」と江上さんはおっしゃいます。このいわば小さな世界に感応し、2,3時間かけて描 こうとする江上さんのリアリティを想像してみること。
さらにこんな絵も。
「壁の曇り日」1972年前後 クレヨン 荒尾郊外
壁の質感に江上さんが惹かれるのはその見た目の面白さではなく、実際に壁に触っているような感覚に駆り立てられているのでしょう。そしてその感覚を、今度はクレヨンを塗るという行為に託し、江上さんは延々とクレヨンを塗っては削りまた塗ってを繰返し、作品を仕上げるのです。
「子どものような」とはいえ、もちろん江上さんは大人であり、しかも45年間会社員を勤め、7人家族を養った歴とした社会人でもあった訳ですから、いよいよもって江上さんという人が分からなくなり、分からないから面白く、底知れない人だなあと思うのです。(たけ)